三国志と三国志演義の違い
さて、今回は三国志と三国志演義の違いを説明したいと思います。
ちなみに私は専門家ではなく、あくまでただの歴オタなだけですので、興味を持ったら自分でお調べしてみることをお勧めします。
さて、中国の三国時代はざっくりとした説明では『黄巾の乱』という民衆の反乱から始まり、群雄割拠の乱世を経て『魏』『呉』『蜀』の三国分立、そして『晋』による三国統一によって終了します。
まず真っ先に疑問に出てくるのは『魏』『呉』『蜀』どこに行ったという疑問だと思います。
当然ですね。『魏』『呉』『蜀』の三国なのに、『晋』ってどこから来たという話です。
ですが、まぁ。最終的に中華を統一したのは『晋』ということでご納得いただければと思います。
さて、『三国志』と『三国志演義』の違いですが、大雑把に言うと『正史』と『二次創作』に分けられます。
もともと、陳寿という人物が『三国志』を書いたのですが、そこに民間伝承等の説話が盛り込まれたのが『三国志演義』になります。
そのために『三国志』には出てきて『三国志演義』に出てこない人物もいますし、逆に『三国志演義』には出てきて『三国志』には登場しない人物などもいます。
そして『三国志演義』は劉備を主人公としているために、彼と敵対した曹操が必然的に悪役として書かれています。さらに劉備に敵対した人物などももれなく悪者として書かれ、裏切って劉備に降った人物も良い人物のように書かれています。
日本の小説にある『三国志』はだいたい『三国志演義』に影響を受けています。
面白いのは『三国志』では普通の有能な政治家も『三国志演義』では悪く書かれていることもあります。
さらに死に方も酷いされかたにされた人物もいます。『三国志』では病死なのに『三国志演義』では殺した武将の悪霊に取り憑かれて主君を罵倒して憤死させられた人物もいます。
他にも『三国志演義』では悪く書かれている人物がいますので、興味を持ったら調べてみても面白いかもしれません。
さて私が個人的にお勧めする『三国志演義』の武将を紹介したいと思います。
その名も『武安国』。
『武を安んじる国』と書いて『武安国』ですよ? すごく強そうでしょう?
その名前の通り彼は武勇の士として『三国志演義』に登場します。
彼の初めての出番は『呂布』が登場する『虎牢関の戦い』です。
あまり三国志に詳しくない人でも『呂布』という名前は聞いたことがあると思います。
彼はその呂布に鉄槌という武器の使い手の猛将として挑みかかります。
そして彼は呂布と10余合打ち合わせて片腕を切り落とされて敗走します。そしてなんとか味方に救われます。
以後、彼の登場はありません。
え? 終わりかって?
終わりです。武安国くんの出番はこれで終わりです。
三国志演義にはこういう扱いをされる人物がいっぱいいます。可哀想ですね。
他にも兀突骨という南蛮の王は身長276cm。食べ物は穀物を一切食べず、生きた獣や蛇を食べているそうです。
中国人は南蛮を人間扱いしたくないのですかね。
ちなみに私は某三国志の歴史シュミレーションゲームで兀突骨は武力を100にして知力を1にします。
え? 扱いが酷い?
いいえ、これは愛です。現に私は兀突骨も好きですからね。
他にも舌戦で負けて憤死するなどツッコミどころ満載な死に方もあります。
さて今回はこれで大まかな『三国志』と『三国志演義』の違いになります。
私も素人ですので、興味を持った方は自分で調べてみてください。何百年と語り継がれている物語ですので、魅力的な登場人物があなたを待っています。
織田信長
一番最初はこの人しかいないでしょう。
日本人なら誰しも知っている『織田信長』です。
私も織田さん家の信長くんは歴史上の好きな人物でも10本の指に入ります。
さて、そんな織田信長ですが、一般的なイメージですと『血も涙もない魔王』や『旧体制の破壊者』というイメージが強いと思います。
まぁ、やっていることを考えれば否定はできませんし、実際に比叡山をファイヤーしたり、伊勢志摩一向一揆で大量虐殺をしているので事実ではあるでしょう。
しかし、実は織田信長は父親である信秀の代から続く勤皇家でもあるのです!!
尾張(信長の生まれた国)を統一できていない時代から朝廷にお金を送って繋がりを持っていた織田家。信長本人も京に昇って時の足利幕府の将軍足利義輝にも謁見している人物です。
後に信長が京都に上洛した時には配下の将兵に『京都で暴れたら首斬るから(意訳)』といった命令を出し、実際に暴れた配下の首を容赦なく落としています。
話が逸れました。
『どうせ利益目的だろ』と思う読者さんもいるかもしれませんが、尾張一国も統一できていないクソ田舎大名が、わざわざ自分の軍事費等を削って斜陽の朝廷や幕府にお金を送る意味があるでしょうか。
え? 信長には津島の商人が味方についていて金があったからできる?
まぁ、否定はしませんが、今までの超現実主義者の信長だったらそれでも朝廷や幕府など無視すると私は考えます。
利用価値があるから守ったのも事実でしょうが。
次にですが信長には『身内にも容赦しない苛烈さ』が印象的だと思います。
それはきっと信長の弟である織田信行(織田信勝)を謀殺したからこその印象でしょう。
しかし、信長は一回目の信行の謀反は許しています。二回目に謀反を図ったがゆえに殺されたのです。
その証拠に信長の兄である信広も一度謀反を起こしていますが、これは許されてその後も一門衆として戦っています。
信行の遺児である織田信澄も一門衆として育てられ、重用されていました。
さて、そんな信長の兄弟達ですが、多くが伊勢長島の一向一揆で戦死しています。
軽く調べられるだけでも織田信広(信長の兄)織田秀成(信長の弟)織田信成(信長の従兄弟で義兄弟)織田信次(信長の叔父)の名前が出てきます。
上記だけでなく、伊勢志摩の一向一揆には信長の弟である織田信興も殺されており、これが伊勢志摩の大量虐殺に繋がったのではないかと私は思います。
比叡山? それは信長さんが『坊主の分際で肉を食って女を抱いている連中なんかいかしておく必要ないだろ(超意訳)』って言い放ってますからね。
一応、信長も敵(当時は浅井・朝倉)に味方しなければ許すよという書状を出していましたが、比叡山側はこれを黙殺。
数ヶ月待っても比叡山が敵対行動をやめなかったためにぶちギレた信長くんは比叡山をファイヤーして大量殺戮してしまいました。
このあたりは信長ファンでもフォローのしようがないですよね。
さてさて、燃やされた比叡山側は信長に敵対していた武田信玄に権僧正という高位の僧位を与えました。
そうしたら信長くんは何を思ったのか『信玄が仏教を守るっていうなら俺は第六天魔王を名乗るわ』と書状に書いてしまいます。
そう、これが信長が『魔王』と呼ばれる所以です。
本人的に軽い気持ちで書いたことが後の世までそのイメージが定着してしまったんですね。
もし信長が知ったら中学生時代に書いたポエム帳が大人になってから見返した男の子の気分になるかもしれません。
そして不思議なのが朝倉や浅井は徹底的に滅ぼした信長ですが、そのきっかけとなった時の足利幕府の将軍である足利義昭は殺さずに追放処分だけになっています。
義昭に殺す価値すら見い出さなかったのか、それとも足利幕府に思うところがあったのかはわかりませんが、結果的に足利義昭は命を永らえることになりました。
さて、信長包囲網をなんとかクリアした信長は家臣の粛清にも手を出します。本願寺攻めの司令官だった佐久間信盛・信栄親子(信栄は後に赦免されて信長の嫡男・信忠に仕える)を筆頭に、林秀貞や安藤守就、丹羽氏勝達が追放の憂き目にあいました。
直接的に関係があるかはわかりませんが、これが明智光秀の謀反に繋がったのではないかと私は考えています。
当時、信長は譜代(所謂尾張時代からの家臣)を重用しており、明智光秀は外様でした。そしてミッチーの外様仲間である荒木村重や松永久秀は信長に謀反を起こしています。
これに危機感を覚えたミッチーは『殺られる前に殺れ』の精神で信長に謀反を起こします。
そうみなさんも教科書で習った『本能寺の変』です。
軍勢をろくに引き連れていなかった信長は京都の寝所であった本能寺を襲撃され『キンカン頭に首をやれるか』とばかりにファイヤーしている本能寺の中で自害して亡くなりました。
ちなみに明智軍は信長の首を発見できなかったとされています。
以上が超簡単な織田信長の説明です。人物像にはかなり私の独断と偏見が混じっていますので、興味を持った方は是非とも自分で調べてみるのもいいと思います。色々な新しい発見があなたを待っているかもしれません。